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【予告編集】大重潤一郎監督作品

『黒 神』処女作 1970

『光りの島』1995

『風の島』1996

『縄 文』2000

『原郷ニライカナイへ―比嘉康雄の魂―』2000

『ビッグマウンテンへの道』2001

『久高オデッセイ第一部 結章』2006

『久高オデッセイ第二部 生章』2009

『久高オデッセイ第三部 風章』2015

沖縄テレビ・報道特集15/11/26

大重潤一郎監督遺作『久高オデッセイ』

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久高島の男たちは、太古から海と共に生きてきた海人である。
海人は、潮の干満をとりわけ大切なものとしています。
久高島の女たちは、海人と島の平穏を祈り続ける神人である。
神人は、新月と満月に、繰り返し祈ることを欠かしません。

その結果、島の中では、母系社会が自然と育まれてきました。
月によって我々の命が生かされていることを知っているから、
久高島は、今なお、旧暦に添って暮らしています。

祈りも、そして、営みも。
生命と月は、切り離すことは、できない。

久高島で存続し得た女性が男性を守る姿に、これからのいのちの
時代への希望を胸に、「久高オデッセイ」三部作完成を目指します。

何卒、ご理解とご喜捨を宜しくお願い致します。


2014.1.1.
大重 潤一郎



2006年11月24日シンポジウムより

「久高島の再生と先住民文化の現在」

 

・大重潤一郎 ・宮内勝典 ・阿部珠理 ・島薗進

 

大重潤一郎監督
故・比嘉康雄氏(久高島をはじめ琉球弧の祭祀世界を丹念かつ精力的に写真と文で記録した写真家。2000年没)の遺言とも言うべきメッセージを映像にし た作品『原郷ニライカナイへ』を撮りおえ、お世話になった久高の方々にこの作品を観てもらったのが2001年の秋、島を去るとき、これで久高を記録する人 間がいなくなるのか、イザイホーがなくなった久高は忘れられていくのか、と思う矢もたてもなく、翌年正月には久高に居を構えて通い続けている。始めは島の 人々と心を通わせることが一番の仕事であった。島の人と飲み、また語り、島の歴史、祖先について、祈りについて、そして未来について語り合った。古代から 受け継いできた島の生活、イザイホーなき後も、根っこの地下水脈は生きていると気づいた。
島の生活や祈り、祭りを撮影していた2004年10月に脳内出血で倒れた。立つこともしゃべることも、記憶さえままならず自殺を考えるような状況に陥っ た。しかし、それから息子を始め多くの若者たちが手伝ってくれるようになり、病院で編集作業をするような状態を経て第1作が完成した。 金も体力もない、まるで絶海の孤島で嵐にあったような状態だったのが、それにじっと耐えてしばらくすると、すーっと晴れてくると感じた。人間が生きること は人為だが、自然の移り変わりのような人間の営みもある。それは信頼にたる。
久高島の再生を記録するこの映画づくりは地味な仕事だ。しかし、現代社会で全てが高速度で遠心力に持って行かれそうなとき、人間の生きていく姿、後世に まで伝えるべきこと、それは求心力のような信頼にたるものである。久高島では、よく破綻したところがやるような外の資本を導入するのではなく、島の中にあ るもので再興しようとした。先祖から引き継いだもの、そのソフトウエアが資源であるという再生方法を選んだ。何もない素通りしそうな島、しかし、目を凝ら してその島という対象を見る、するとそれは同時に自分を見つめることになり、全てがそこにあると思える。特別むずかしい事ではない。毎朝日の出を拝むよう なこと、現代の都会では不思議に見られるこの行為、しかし、太陽の光りを見て手を合わす、それこそが普通のことである。それを若者たちと共に伝えていきた い。


宮内勝典氏(作家)

久高島には手付かずのエリアがある。そこにウタキがある。そこは神聖な場所。身が震え、清らかで、荘厳、簡素である。しかしニライカナイからの神を迎え る祭りの神女たちの行列を、何の関心も関係もないジャージ姿の女性が突っ切っていった。そのふたつが交差する十字路に私たちは今、立っている。
インドもバリもネパールも、ブータンでさえもグローバリゼーションの波が押し寄せてきている。世界は津波に襲われ崩壊してゆく状況だ。その今、久高にか ろうじて残っている何ものか。住民270人くらいの小さな島、霊性の高い島が壊れつつありながらも、必死に持ちこたえている。われわれは何らかの精神性を 保つことができるのかの瀬戸際にいる。それを、久高島を通して見ている。現代社会のグローバリズム経済に拮抗するものを、ちっぽけで薄いさんご礁の島で生 きている人が、はっきりと意識している。
私が、イザイホーを復活しよう、というと大重監督は、要らない、今ある祭りでいい、という。イザイホーは琉球王朝から押し付けられた祭りだ、というのには目からうろこが落ちる思いだった。
この島にいると開かれた場所にいる、地球という惑星にいるのだという感じを持てる。久高島とはラストランナーがトップランナーになりうる、現代の一番大切な問題を手探りしている場だ。

島薗進氏(東京大学大学院人文社会系研究科教授・宗教学)
『久高オデッセイ』を2005年3月の第19回国際宗教学宗教史会議で上映できたのは大変有意義であった。久高島の方々は落ち着いた生活をしておられる、いろんな悩みや問題があっても、それをろ過してしまうような生活をされているのではないかと思う。
エジプトに行った時、パレスチナのこと、イラクのことなどさまざまな心配を抱えつつ、エジプトの若者の表情は晴れ晴れして見えた。久高島でも、特に子供の表情が印象的であった。神ごとと生活が切り離されていないのが不思議である。
折口信夫のニライカナイ観とはこういうことなのかと感じることが出来た。私は死生学に取り組んでいる。死者とどう関わっているのか課題である。大重監督は先祖との関係、先祖が生きたあり方を取り戻されたと思う。

阿部珠理氏(立教大学教授・アメリカ先住民研究)
大重監督は感動の名人だ。大学のフィールドワークで久高島にいった時、無関心だった学生も大重監督の話に惹きこまれていった。人間を動かすのは感動なのだ。
久高の祭りには儀式のフォーマットがない、いつ始まっていつ終ったのか分からない、人のありようのように儀式が呼吸している。
島は孤立して閉じているように受け取りがちだが、実は、島は開いている。そこで琉球弧という交流圏を作っている。
再生の物語には、自然ばかりでなく、人間の営みが必要だ。久高では水と大地を取り返す試みやイラブ漁の復活などがある。それは島の伝統に対するコミットメントである。 注意すべきことは、沖縄=癒しの島、のようなステレオタイプ化すること。何事にもその危険があることを押さえておきたい。
この映画のメッセージは将来、過去ではない。確かに世界は壊れている。しかし、アメリカ先住民もどん底から今再生しつつある。久高島も再生しつつある。 霊性には肉が伴わなければいけない。霊性を支える環境が必要。魂のあり方を、土が再生し、水が戻ってくるという環境が支えている。物理的環境と魂は相即し ている。この映画はそういう「全体性」を語っている。「全体性」は21世紀のキーワードである。