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【予告編集】大重潤一郎監督作品

『黒 神』処女作 1970

『光りの島』1995

『風の島』1996

『縄 文』2000

『原郷ニライカナイへ―比嘉康雄の魂―』2000

『ビッグマウンテンへの道』2001

『久高オデッセイ第一部 結章』2006

『久高オデッセイ第二部 生章』2009

『久高オデッセイ第三部 風章』2015

沖縄テレビ・報道特集15/11/26

大重潤一郎監督遺作『久高オデッセイ』

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2000年代の軌跡

2000年、大重の映画人生に転機が訪れる。その契機は、沖縄の聖地・久高島(沖縄県南城市)に住む人々を撮り続けてきた写真家、比嘉康雄からの撮影の依頼であった。末期ガンであった比嘉の「死を迎える前に残したいメッセージがあるので収録してほしい」という言葉に、大重は突き動かされ、すぐに沖縄に飛んで撮影することになった。収録して二週間後、比嘉康雄の魂は「原郷のニライカナイ」ヘと旅立っていった。

比嘉の遺志を受けとめ、2001年には、記録映画『魂の原郷ニライカナイヘ~比嘉康雄の魂~』を完成させた。その作品の評価は高く、大重映画の中でも最高傑作であると言われている。一方で、「ヤマトンチュ」(日本本土出身者)である大重が、比嘉康雄というカリスマ的写真家の最期を記録したということで、一部の知識人から批判的な意見もあった。つまり、「ヤマトンチュ」が「ウチナーンチュ」(沖縄人)から文化的搾取するという典型例として捉えられたのであった。偏狭なポストコロニアル思想に毒された知識人が矛先を向けたわけである。しかしながら、比嘉康雄が大重にフィルムを回させた動機は、「自分の言霊を後世に広く伝えたい」という純粋な思いではあるまいか。つまり、比嘉は、沖縄の古層に見つけ出した「人類の祖型」について記録してもらうのならば、「沖縄の特殊性」を見据えて「人類の普遍性」へと繋げることのできる人間に頼みたい……と切望したと考えた方がよかろう。

2002年、大重は、比嘉康雄の遺志を受け継いで、沖縄の古層を記録することを決め、沖縄に移り住むことにした。琉球弧の基層文化を記録撮影することに、集中したいと考えたからであった。まずは那覇市に拠点を構え、制作活動のために、「NPO法人沖縄映像文化研究所」を設立して理事長に就任した。「神の島」と呼ばれる久高島を記録するために、長篇記録映画『久高オデッセイ』の企画を立ち上げて支援者を募り、聖なる島の人々の生活をドキュメントする準備を整えた。その島を12年間にわたって記録する『久高オデッセイ』(三部作構成)は、まさに大重映画の到達点を目指したものであり、海に生きる人々に寄り添ってきた映画人生の終焉地として相応しいものであった。他方で、奈良県の大台ケ原の四季の変遷を捉えた『大台ケ原 気と水』(環境省・奈良県/2002年)を制作し、沖縄に拠点を移しても、日本の自然と文化を記録するという活動を続けた。そして、かつての盟友でもあり、沖縄物産企業連合を立ち上げたばかりの宮城弘岩からの支援を受け、「ちゅらビデオシリーズ」三部作である『居眠り市場』『山原の夏』『神々の島の現在』の制作に取り組んだ。『神々の島の現在』は『久高オデッセイ』の久高島のロケ撮影の先駆けとなり、また『山原の夏』は大重が作品化したいと渇望している記録映画『森の気~ヤンバルの小宇宙~』の構想の一部となっている。

2003年、ベルリン国際映画祭に『小川プロ訪問記』(博報堂/1981年)が正式招待され、大重作品に対する評価も高まっていった。2004年、沖縄県より「美(ちゅ)ら島大使」の任命を受け、沖縄と日本本土の架け橋となるべく、映画制作を沖縄にこだわって続けることに集中する。しかし、2004年10月に脳出血に倒れ、右半身の自由が利かなくなる。大重は、『久高オデッセイ』の当初の構想は四部作の予定であった計画を、三部作として構成しなおした。比嘉康雄の遺志を受け継いだという使命感から、激痛を耐え抜き、リハビリを受けながら、2006年に第一部をついに完成させた。2007年2月には、『久高オデッセイ』は那覇市の桜坂劇場で一般公開され、ドキュメンタリー分野では異例の観客動員数を記録した。その後の大重は、『久高オデッセイ』の続編の撮影に入り、2014年まで記録の旅を続け、映画人生の「終焉の地」へと歩み続けている。